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五木寛之の「回想のすすめ」

回想のすすめ

作家五木寛之さんは、自身が高齢になって考えたことや行動についていろんな視点で書き著し、何冊か本を出していますね。さすが若かりし頃読んで感動した名作「青春の門」で一世風靡したベストセラー作家、その筆はいささかも衰えることはない。その中に“「回想」のすすめ”というエッセイがあったので少し紹介しますね。

★★★

ある程度、高齢になってくると、誰でも気持ちが沈むことがある。初老期のうつ的な病的なものもありますが、そうでなかったとしても、同世代の友人や知人がどんどん欠けていったりすると、なんとなく心寂しくなるものです。

(中略)

最近は、未来を考えるより、むしろ昔を振り返ることが大事だと思っています。記憶の抽斗(ひきだし)を開けて回想をし、繰り返し記憶を確かめるたびに、デイテールが鮮やかになってくる。それが、日々の楽しみになるのです。

過去を振り返るのは後ろ向きだ、退廃的だと批判する人がいます。「高齢になっても前向きに生きよ、それが元気の秘訣だ」という意見も、少なくありません。しかし高齢者の場合、前を向いたら、“死”しかありません。それよりは、あの時はよかった、幸せだった、楽しかった、面白かったと、さまざまなことを回想し、なぞっていったほうがいい。

誰もが回想の抽斗をたくさん持っているはずです。しかし、しょっちゅう開けて出していないと、錆びついてしまい出てこなくなる。だから、同じ抽斗を何度も開けておいたほうがいい。

(中略)

「回想」は、医療の現場でも取り入れられています。(中略)回想することで脳が活性化され、回想を語るとコミュニケーション力にも刺激を与えるからでしょう。

また、蘇った思い出が楽しいものであればあるほど、心理的な効果が高いと言われています。自分の人生、捨てたものではないと、肯定的な気持ちになるからです。

回想は投資信託と違って、元本を割り込む心配もありません。しかも元手は自分の頭の中にあるわけですから、無限に存在している。これほど安心で、しかも効果が期待できる財産は、そうそうありません。

書くのが好きな人は自分史を書くのもいいかもしれませんが、誰もができることではありません。ですから無理せず、頭の中で記憶を蘇らせるだけでいいのです。

高齢になり、なんとなく厭世的になって生きているのがいやだなと思う原因は、大きくふたつあります。ひとつは人間不信。例えば必死で働いて家族を守ってきたのに、高齢になったとたん邪慳(じゃけん)にされる。子どもたちは遺産のことしか考えていないのではないか。定年になったとたん、誰も見向きしてくれないーーそんな、いささか被害妄想的な思いにとらわれて索漠とした気持ちになることは、誰しもあると思います。

一方で自分はどうなのかと我が身を振り返ると、今度は自分が嫌になる。鏡を見ると老いた姿が移っている。あちこち具合が悪くて体も思うように動かないし、前向きな気持ちにもなれない。家族のお荷物になっているのではないか、等々。

人間不信と自己嫌悪は、人が明るく生きていく上で大きな障害になります。それを、どういうふうに手放すか。私はこれも、回想の力によって乗り越えられと考えています。

世の中は金と欲と権力の巷だということは分かっているけれど、それでもなお、、人間は面白い、ささなかな人の営みというのは、なんともいえない味わいがある。そんなじわーっとした思いによって、人間不信と自己嫌悪という二つの病が癒されいく感じがある。

だから私は、気分が滅入ったときにはたくさんある記憶の抽斗を開けて、思い出を引っ張りだすようにしています。そうやって回想し咀嚼していうちに、立ち直る自分がいる。最終的には、人間とは愛すべきものだというあたたかい気持ちが戻ってきます。

誰でも生きていれば、つらいことや、嫌なことは山ほどあります。しかしそういう記憶は、抽斗の中にしまったままにしておいたほうがいい。落ち込んでいる時、弱っている時は、なんともいえないバカバカしい話が逆に力になることがある。賢人の格言より、思想家の名言より、生活の中でどうでもいいような些細な記憶のほうが、案外自分を癒してくれるのです。

しかも、歳を重ねれば重ねるほど、長年生きた分、そうした思い出の数は増えていくはずです。いわば頭の中に、無限の宝の山を抱えているようなもの。そうした日常生活の中でちょっとした出会いや思い出を記憶のノートにしっかり記しておいて、ときどき引き出して、発掘し発見するのは、下山の時期を豊かにするためのいい処方箋です。そのためにも、「回想力」をしっかり育てたいものです。

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さすが、五木寛之さん。