ライフヒストリー良知

2-1-3 記憶の仕組み

その翌日なら覚えているのに1年後には忘れ去っているという現象の背景には何が起こっているのでしょうか? はたして記憶は完全に失われてしまっているのでしょうか? あるいはどこかに潜んでいて、声や匂いといった刺激やヒントによって思い出されるのでしょうか?

これらについて、研究者たちは長い時間をかけて論議を続けてきました。そして動物を使った実験から、今では、記憶がニューロン同士の接続の強さの変化によってコード化されることがわかってきました。

何かの経験をしたり、新しい事実を知ったりすると、ニューロン同士の結合部であるシナプスで複雑な化学反応が起きます。この変化が時間の経過とともに起こらなくなります。つまり、記憶をコード化するニューロンの結合が時間と共に弱まり忘却に向かい、その後も思い出したり考えたりすることがなければ、結合はさらに弱まって、記憶を呼び起こせなくなるのです。

しかし、失われたように思える記憶も、それが元々どうのようにコード化されたかを思い出させるヒントがあれば回復できます。強力なヒントがあれば、弱まったニューロンの結合から経験の断片を掘り起こし、ほとんど失われた記憶を取り出すことができるのです。

ヒントの役割を科学的に検証したのが米国の心理学者ウィレム・ウェゲナーさんで、自分自身の個人的な記憶の研究として、ヒントの役割について科学的に検証しました。ウェゲナーは、4年間にわたって毎日ひとつの出来事を、様々な側面から記録しました。

関わったのは誰か? 何が起きたのか? それが起きた時間と場所、そしてその出来事に関する詳細な記録を書き記しました。ウェゲナーさんは、この備忘録をつけている4年間、内容を一度も読み返しませんでした。4年分の記録を書き終えた翌日に、ようやくいろいろな組み合わせをヒント(例えば、だれ、なに、どこで、いつなど)によって、記憶を確かめる作業を始めたのです。

その結果、ヒントの数を増やすほど、その出来事のカギを思い出しやすくなることに気づきました。しかし、いかに多くのヒントを与えても思い出せない出来事も多く、こうした経験が記憶から完全に失われたどうかを調べるために、ウェゲナーさんは、自分が完全に忘却したと考える出来事に関わった10人に質問をしました。すると、完全に忘れたと思われたすべての出来事について、ヒントをもらうことで思い出すことができたそうです。

この研究によって、時間の経緯による物忘れの性格が明らかになりました。物忘れとは、完全な忘却ではなくて、不完全に記憶されている状態で、その不完全な記憶の周りには、経験の断片が散らばっている。だからこそ、何かを思い出せない場合でも、知っているというぼんやりとした感覚があり、その出来事にまつわる一般的な知識、または断片的な情報だけを覚えていることが頻繁に起こるということなのですね。