この連休に帰省した孫たち(5歳、3歳、2歳)をみてビックリするのは、3人ともそれぞれ、娘のスマホを自由自在に操作していることですね。
この光景を見ながら哲学者鷲田清一さんの言葉を思い出しました。
★★
<老い>がまるで無用なお荷物であって、その最終場面では介護の対象として意識されるという、そんな惨めな存在としてイメージされるようになったのは、それなりの歴史的経緯がある。生産と成長を基軸とする産業社会にあっては、停滞や衰退は何としても避けなければならない。その反対側にあるものとして<老い>がイメージとして位置付けられる。
重要なことは、<老い>が時間のなかで蓄えられてきた経験に僅かな意味しか認められないことだ。産業社会では<経験知>よりも、誰もが訓練でその方法さえ学べば使える<技術知>が重視される。<老い>が尊敬された時代とは、この<経験>が尊重された時代。
かつて囲炉裏端での老人との会話で、孫は老人から知恵と知識を得た。今は老人が孫からコンピューターの使い方を教わる。<経験>がその価値を失うということは、<成熟>が意味を失うということ。さらに<成熟>が意味を失うということは、大人になることの意味が見えなくなることだ。
僕たちは、これからますますコンピューターやスマホなどに負けない知恵・智恵・智慧を身に付けないとあかんなぁと、孫たちを観ていてつくづく感じましたね。