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かな

「平安前期までの日本は、ほとんど中国文化の取り入れに明け暮れた。その中で本当に創造的な仕事と言えるのは、仮名の発明くらいである。」と言ったのは、歴史学者の東野治之さんです。(『木簡が語る日本の古代』)

自らの言葉を記録するための文字を創り出すことによって日本文化が生まれ、統一された国を形成してきたと言っても言い過ぎではないと思います。かなが発明されていなかったら日本という文化国家は、おそらくなかったに違いありません。

日本語とは、言葉であると同時に文字。中国語は言葉(漢語)と文字(漢文)がはっきりと別れているという考え方をしますが、日本語は、言葉を指す時も「日本語」であり、文字を指す時も「日本文字」と言わずに「日本語」と言いますね。つまり日本語は言葉と文字が一体になっているのです。

日本語は漢字とかなが混ざり合っています。デコボコが激しい。例えば、「難しい」という字を書くと、「難」は18画もあるのに、「しい」は1画と2画です。とてもアンバランスですが、この混合文こそが日本語の最大の特徴です。

漢字は、概念とか固有名詞などに使われています。漢字は漢字そのものに意味があるのでわかりやすい。例えば「水素」という漢字は「すいそ」とかなで書くより「水素」つまり「水の素」という意味を持つ漢字を使ったほうが理解がしやすいですよね。また「及び」という文字は漢字でもいいけれど、「および」とかなで書いてもいい。別に決まりや基準があるわけではありません。とても自由なのです。

かなは、中国的な権威とか神秘性を追求して作られたという漢字とは、そもそも違う方向を目指してきたように思います。それが一行に漢字、ひらがな、カタカナと順不同に並ぶ。「美しさ」という視点からすると決して美しくはないけれど、日本語の本質である「わかりやすさの追求」という目的からすれば、とても形が良くて実に美しいですね。

そこが、ハングルのみで漢字を捨ててしまった今の韓国との大きな違いですね。なぜ漢字を使い混合文としてきた従来の韓国文化を継承しないのか、大いに疑問に思っています。

「日本語は『てにをは』を結ぶ文章で、語尾はどうでもいいような、ナマコみたいな、軟体動物みたいな言語」と言ったのは、かの司馬遼太郎さんです。
「日本語はおもしろい」
「日本語はおもしろいよな」
「日本語はおもしろいといえなくもないね」 とか、
とにかく、いくらでも言葉を曲げたり、真っ直ぐにしたり、最後にひとつふたつ、余計なものを付け加えてもいい。同じ意味のことをいくらでも変えられますね。それに男性が言った場合と女性が言った場合とでは、その雰囲気ががらりと変わります。
「日本語はおもしろいわ」
「日本語はおもしろいわよ」
「日本語はおもしろいわよね」

また、男性であっても、職業によって異なる表現ができるし、同じ意味の言葉でも語尾だけ変えれば話し手の年齢もわかりますね。言葉の表現の仕方でその人が荒っぽいかやさしいかといった性格もわかるし、また方言を表すことによって出身地がどこかもわかります。

フランス文学者の多田道太郎さんは、「結局われわれの文化の体系というのは、いちばん下にひらがな、その上に漢字が乗っかって、その上にカタカナというふうに、重層的になっているのです。だから日本は、ひらがなを発明して以来、いつの文化でも重層的になっていったようです」と言います。

見方を変えれば、そもそも日本文化が重層的であるからこそ日本人は、ひらがなもカタカナも漢字も、同一文に使うことに抵抗を感じないし、そういう日本語が生まれたのだと言うこともできるのです。

繰り返しますが、「日本文化とはかな文化である」ことは論を俟ちません。この発明・創出がなければ日本という国はなかったと言ってもいい。また今日の近代化や工業化に至る過程において多くの困難を伴ったに違いありません。

その意味で、私は“かな”に心から感謝をしたいのです。

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