日本に自伝文化あり
自伝作家の佐伯彰一さんは、その著書『日本人の自伝』の中で〈東洋に自伝なし〉という言葉を使って、自伝を書くと言う文化はヨーロッパやアメリカに根付いてきたもので、日本や韓国、中国などのアジアの国々には、これまでそのような文化がなかったと言っていますね。
これは宗教の違いによるものだと言ってもほぼ間違いないでしょう。東洋はおおむね儒教や仏教で、一方西洋はキリスト教ですよね。
仏教なら、人生は空しくはかないものでそれに執着してはならないという感覚があって、自分を人生を振り返ることに躊躇させる、ましてやそれを後世に遺すことの発想がそもそもないですから。
儒教は、“恕(じょ)”、つまり思いやる心が大切だと教えています。他人の価値観や人生観、宗教にはずたずた入り込むな、非難の目を向けるなとなります。自伝はどうしても他人との利害関係に関わってくるのでなかなか手がつけられないのでしょう。
これに対して、欧米人は自伝を書くとき、自分を赤裸々に綴ると同時に、相手のなかにもずんずん踏み込んでいきます。聖書のマタイの福音書に「自分にしてもらいことは、他人にも同じようにしなさい」という言葉があります。
これは相手の価値観や人生観などはあまり考えずに、自分の考え方は相手も同じなのだから進んでやるべきだと言うことになり、自分の生き様だけをすんなり書くことができるようですね。
しかし時代は刻々と変化していきます。今認知症など脳に関わる病のことが社会的に大きくクローズアップされ、記憶を失うことへの恐怖や不安を持つ人が増えています。
その中で、医療技術の進歩によって、過去を振り返り、昔の様々な経験や知識をヒントとして、脳に刻まれた記憶を呼び起こすことは、脳の神経細胞(ニューロン)を新たに生み出していくことが明らかになってきました。
またそのことで脳の血管内の血流量が増え、前頭葉や偏桃体などの部位が活性化することも解明されてきています。
さらに、過去を語ることによって心豊かな楽しい気持ちになり、その方のカタルシス(心の浄化)が促進することなどは、これまで心理学の世界ではかなり研究され、様々な実証結果が世の中に発表されています。
これらから、口述自伝の作成は、人を幸せにするためのプログラムのひとつになるでしょう。
そして、孔子の言う〈寛容の精神〉を基に、名もなき普通の人々の生きざまを自伝にして後世や後裔に遺すことを〈日本の文化〉にしていきたいと願っているのです。