句読点の考え方
句読点(テンとかマル)は、歴史が浅くいまだに決定的な法則はないですね。だけどだからと言って句読点を適当に使ったらいいということにはならない。
「聞き書き技術試論」という未発表の論文を私に託したジャーナリストの故和多田進さんは、著書『ドキュメント帝銀事件』を上梓した時のあとがきに、「本文庫収録にあたって、私は作文上のいくつかの訂正を試みたいと考えた。ひとつは『昭和』という年号表記をせめて西暦表記に改めるということ、もうひとつは句読点を論理的なものに改善したいということだ。」と書き綴っています。
「『テン』をどのように使用するかは、実は『テン』を使う人間の論理水準の問題だと私は考えるようになってきた」。そして「語順が正しければ『テン』は不用。読みづらいから打つ心理的な『テン』というものは本来は不用な『テン』と考えるべきではないか」とも。
これは小説や詩、エッセイのような文章ついての『テン』ではなく、あくまでも「聞き書きことば」での『テン』だと断わっているけどね。私も今後事業を推進するうえで、『テン』の打ち方についてあくまでも論理的に考え、決しておろそかにしないようにと思っているのです。