老いることが無用なお荷物と思われ出したのはいつの頃からでしょうか?大阪大学の文化研究科の先生、鷲田清一さんはこう述べていますね。
『老いることの最終場面ではまず介護の対象として意識される。そんな惨めな存在として意識されるようになったのは、それなりの歴史的経緯がある。生産と成長を基軸とする産業社会にあっては、停滞や衰退はなんとしても避けなければならない。その反対軸として、<老い>がイメージとして位置づけられている。生産性や成長性、効率性、速度に対して、非生産性=無用なもの、衰退=老化として対置される。
そのふたつは、正と負の価値的な関係のなかで捉えられている。そして重要なことは<老い>が負の側に象徴するのは、時間のなかで蓄えられてきた<経験>にわずかな意味しか認められないということである。産業社会では基本的に、ひとが長年かけて培ってきた経験知よりも、誰もが訓練でその方法さえ学習すれば使用できるテクノロジー(技術知)が重視される。機械化、自動化、分業化による効率の向上が目指されるからである。
<老い>が尊敬された時代というのは、経験が尊重された時代のことである。かつていろり端では老人と孫の会話で、孫は老人から知識と智恵を得た。現在では、老人が孫からコンピュータの使い方を教わる。
<経験>がその価値を失うこと、それは<成熟>が意味を失うということだ。』
なるほど、確かに知識は今やパソコン、スマホ―の中にびっしりと詰まっています。高齢者の経験や知識はそれらに比べたらはるかに質も量も劣っているかもしれませんね。高齢者に残されたものはその経験や知識でベースにこなれた「智恵」だけになります。
自らの「智恵」を磨き、どれだけ世に創出できるか。老年期を豊かに生きる大きな課題ですね。