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発憤して書を著す

司馬遷の話をもう少し。当時匈奴という屈強な異民族と闘うため名将李陵は戦地に赴いた。武運つたなく匈奴の捕虜になったが、匈奴王は李陵の才能を高く評価し、自分の娘を嫁にやるほど厚遇した。

この話を聞いて漢の武帝は激怒し、漢中にいた李陵の妻や子、母や弟を死罪に処した。この時御前会議の末席に加わった司馬遷は、武帝の顔色を伺い李陵を批判する者しかいない中で、一人勇気を持ち、これまでの李陵の功績やその人間性、能力などについて語り擁護した。

これが武帝の逆鱗に触れ、司馬遷は死罪を賜った。これを覆すには大金を積むか、宮刑を受けることしかなかった。司馬遷にお金はなく、また貸してくれる親戚も友人もいなかった。

司馬遷は宦官になるくらいなら生きている意味はないと考えたようだが、父の「史記を完成させよ」という遺命を実現させるべく涙を飲んで自分の一物を差し出した。

その後大赦によって獄から解かれ、こともあろうか武帝の秘書官に命じられた。武帝は司馬遷の文才を認めてのことだった。大出世だ。

しかし司馬遷が孤独に過ごす時間帯、幾度となく襲いかかってくるのは、獄中にいたときのあの忌まわしい屈辱の思いだった。

腐刑を受けてまでも己が生き続けようとした志が何であったか。司馬遷は、様々な不幸や悲運に見舞われ、傷つき挫折した先人たちが発憤して書を著わし後世に不朽の名を残した数々の人間、すなわち孔子や周の文王、楚の屈原や韓非子、左丘明や孫子など、を知っていた。それが司馬遷を励ました。

司馬遷は、史記130編の完成に向けて努力した。紙がない時代、木や竹を削りそこに墨で書いた。今なら考えられない気の遠くなるような作業だ。自分の記憶だけが頼りだった。人間の記憶力と言うのはなんと凄まじいものであろうか。

司馬遷にとって書くことが生きることだった。現世で腐肉をさらした者にはそれが後世に名を残す唯一の方法だった。

歴史官として皇帝に命じられて史書を編むのではない。我に命じて我がために書く。そして、その構想において、様式において、文章において、他と比べようのない独創的な歴史書を見事に書き上げたのでした。