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後世の最大遺物とは何か?

後世への最大遺物とは何か?

「後世への最大遺物」というのは、明治時代の思想家内村鑑三が、今から124年前の日清戦争が勃発した1895年(明治27年)、33歳の時に箱根で講演した内容を取りまとめたものです。人は後世に何を遺すことができるか、なかなか示唆に富んだ語りで、口述自伝制作事業“ライフヒストリー良知”の推進に向け、その礎のひとつとしています。

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(前略)
何を置いて逝こうかという問題です。何を置いて我々がこの愛する地球を去ろうか。そのことについて私が考えた、考えたばかりでなくたびたびやってみた、何かを遺したい希望があってこれを遺そうと思いました。それで後世への遺物もたくさんあるだろうと思います。それを一々お話しすることはできないことでございます。けれども、このなかに第一番に我々の思考に浮かぶものからお話ししたいと思います。

後世へ我々が遺すものの中にまず第一番目に大切なものがある。何であるかというと『金(かね)』です。我々が死ぬとき遺産金を社会に遺して逝く、己の子供に遺して逝くばかりでなく、社会に遺していくということです。
(中略)
さて、私のように金を溜めることの下手なもの、あるいは溜めてともそれを使えない人は、後世の遺物に何を遺そうか。私はとうてい金持ちになる望みはない。ゆえにほとんど10年前にその考えをば捨ててしまった。それでもし金を遺すことができませぬならば、何を遺そうかという実際問題が出てきます。それで私が金よりもよい遺物は何であるかと考えて見ますと、『事業』です。事業とは、すなわち金を使うことです。金は労力を代表するものでありますから、労力を使ってこれを事業に変じ、事業を遺して逝くことができる。
(中略)
もし私に金を溜めることができず、また社会は私の事業をすることを許さなければ、私はまだ一つ遺すものを持っています。何であるかというと、私の『思想』です。もしこの世の中において私が私の考えを実行することができなければ、私はこれを実行する精神と筆と墨とをもって紙の上に遺すことができる。あるいはそうでなくとも、それに似たような事業がございます。すなわち私がこの世の中に生きているあいだに、事業をなすことができなければ、私は青年に薫陶して私の思想を若い人に注いで、そうしてその人をして私の事業をなさしめることができます。
(中略)
もし我々が事業を遺すことができなければ、我々に神様が言葉というものを下さいましたからして、我々人間に文学というものを下さいましたから、我々は文学をもって我々の考えを後世に遺して逝くことができます。
(中略)
文学者にもなれず学校の先生にもなれなかったならば、それなら私は後世に何も遺すことはできないかという問題が出てくる。何かほかに事業はないか、私もたびたびそれがために失望に陥ることがある。しからば私には何も遺すものはない。事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。そうすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか。
(中略)
しかれども私はそれよりもモット大きい、今度は前の三つと違いまして誰にも遺すことのできる最大遺物があると思う。それは実に最大遺物であります。金も実に一つの遺物でありますけれでも、私はこれを最大遺物と名づけることはできない。事業も実に大遺物たるに相違ない、ほとんど最大遺物というでもようございますけれども、いまだにこれを本当の最大遺物ということはできない。文学も先刻おはなししたとおり実に貴いものであって、わが思想を書いたものは実に後世への価値ある遺物と思いますけれども、私がこれをもって最大遺物ということはできない。
(中略)
それならば最大遺物とは何であるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、そうしてこれは誰でも遺すことができるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば『勇ましい高尚なる生涯である』と思います。これが本当の遺物ではないかと思う。
(中略)
しかして『高尚なる勇ましい生涯』とは何であるか。
(中略)
失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信じすることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えを我々の生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。この遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。
(中略)
この1年の後に我々がふたたび会しますときは、我々は何か遺しおって、今年は後世のためにこれだけ金を溜めたというのも結構、今年は後世のためにこれだけの事業をなしたというのも結構、また私の思想を雑誌の一論文に書いて遺したというのも結構、しかしそれよりもいっそう良いのは後世のために私は弱いものを助けてやった、後世のためにこれだけ艱難に打って勝ってみた、後世のために私はこれだけの品性を修練してみた、後世のために私はこれだけ義侠心を実行してみた、後世のために私はこれだけの情実に勝ってみた、という話を持って再びここに集まりたいと考えます。この心掛けをもって我々が毎年毎日進みましたならば、我々の生涯はけっして50年や60年の生涯にはあらずして、実に水の辺りに植えたる樹のようなもので、だんだん芽を萌き枝を生じてゆくものであると思います。
(中略)
我々に後世に遺すものは何もなくとも、我々に後世の人にこれぞという覚えられるべきものはなにもなくとも、あの人はこの世の中に生きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。

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この『高尚なる勇ましい生涯』を顧客の皆さまの様々な時代に起きた出来事や体験談、その時の思いや考えたことなどを聴いて、訊いて、また聴いて、訊いて、その内容をレコーダーに取り、顧客の皆さまの口調や言い回しなどをそのまま残しながら文章化し、推敲し、当社が独自に作成したホームページシステムに落とし込み、家族や友人の方々にパソコンやスマートフォンで見て頂き、そして最終的にはハードカバーや電子書籍などの本にして後世の遺していきます。。

顧客の皆さまにとって「高尚なる勇ましい生涯」とは何なのか、一緒に考えていきたいと思います。

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